〜 blancのひとりごと

3月11日の黙祷と何もできない私が積み上がっていく

 

 

 

 
一昨日、3月11日14時46分。
執務室で、テレビの時報に合わせて黙祷した。
 

 

2011年のあの日は、札幌市内の宮の森辺りに仕事で出かけていた。
 
揺れた時は、
 
震度3くらい?
でも長い揺れだし、ちょっとない揺れ方
 
と思った。
 
金曜日で仕事中。
お客様のところだったが、地震に慣れていない札幌の皆様はものすごく恐ろしがり、私だけ震度3くらいだし、などと今思うと呑気に構えていたが、お客様達は車が安全、外に出ましょうとおっしゃるので外に出た。
 
正直なところ、3月半ばの札幌はまだまだ寒いし、震度3なら車に避難しなくても、と思ったけれど皆様不安なのだろうと従って寒空の中外に出た。
 
ただしばらくして車の中で携帯のメールの音がしたので、見てみると弟から。
 
「(両親が)九十九里にドライブに行ってる。連絡つかないからとりあえず実家に向かう。」というメール。
 
その時は外で何の情報もなかったので、
「何のこと?」と思ったが弟からメールなど早々来ないので、
「そうなんだ、ドライブいいなぁ。海見てるから携帯見ないんじゃない?実家戻るなら気をつけて。」
などとまったくトンチンカンな返事をした。
 
外にいてテレビもなかったのでただの地震だと思っていた。
 
そしてそのあと仕事を終え会社に戻ったのが夕方。
戻るなり、同僚から「ご家族大丈夫?関東も大変なことになっているよ!」と口々に言われた。
 
訳も分からないまま会社のテレビを見ると千葉のコンビナートが炎上。
当時の上司は千葉県市原市に自宅があり、単身赴任。
津波の話も出ており、弟のメールの意味がやっと分かった。
 
でもその時にはまったく家族と音信不通。 
友達も誰一人繋がらず音信不通。
 
安否が分かるまでの不安は言葉にできない。
もしその後弟にも何かあって親が津波に巻き込まれたらいきなり私だけになってしまう。
 
黙祷の1分間。
そんな当時の地震直後の記憶が蘇ってきた。
 
ようやく連絡がついたのは夜中を過ぎてから。
弟は仕事で東京の町田辺りにいたらしいが、コストコの駐車場の崩落を見たらしく写真が送られてきた。
その都内から半日かかっても実家に辿り着けず断念。
 
食べ物も水も不足し、しばらく札幌から送っていた。
私は家族やご近所さんに、とてもありがたがられたが、筑波に家族がある同僚は茨城県には荷物は送れないと言われて支援ができなかったし、宮城で被災したご両親とお姉さま家族が、札幌の同僚のところに身を寄せたり、本当に大変なことがたくさんあった。
 
幸い実家は何一つ壊れず、計画停電も一回もなくありがたかったが、今も福島の地元に戻れない人達がいると思うとやりきれない。
 
記憶が風化しないように黙祷することも、
あの時命を失った人達を思い出すことも、
大事だと改めて思った1分間。
 
とても長く感じた。
 
今は別の意味で大変で、経済的に大変な企業も多い。
ホテルだけでなく、飲食、建設、運輸などいろんな業種が大変なことになっている。
 
早く落ち着いて欲しい。
 
そして、あの頃。
ものすごく忙しくて長時間労働で、先のことなど何にも考えられず、毎日深夜1時に布団に倒れ込み翌朝6時には起きて始動。
 
週末はほぼ沈没していた。
 
これからどうしたい、とか将来のことなど何にも描けずにいた。
毎日をこなすだけで精一杯。
あれから9年経って、何か達成できたかというと何にもない。
そのことにも愕然としてしまった。
 
次の10年、どうしよう。
 
と焦るけれど、とりあえず明日も仕事。
早く寝なくては。
 
こうして、何にもできない私が積み上がっていく。。。
 

 

 

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