桜を意識して見ることが少しできた
昨年は桜を見るのが辛すぎて、見たいのにダメだった。
これからまだまだ40回くらいは一緒に見られると無条件に信じていた。
当たり前と信じていたものが突然失われて、 昨年の桜は目に映っていたけれど、私の心をえぐるものでしかなかった。
意識して見ると、思い出が溢れたり、一緒に行った場所が走馬灯のように頭の中をぐるぐるして、そしてこれから行きたかった場所も出てきて、花の下で幸せそうな人たちを見ると、私もその一員だったのにと悲しくなり・・・。
わざわざ辛くなることはしない。
そう決めて桜から距離を置いた。
自宅の目の前にある桜が満開の公園にも一歩も入れなかった。
でも今年は思い切って公園の中に入った。
幾度か泣きそうになっては堪えながらも、ちょっとだけ桜を見ることができた。
ドラえもんのいない世界
日用品を買った帰り、家に入る前に思い切って自宅前の公園の桜を見ることにした。
公園の中までは行かず、外側の一部で人が少ないところでちょっとだけ桜を見た。
両親と友達とも一緒に見たことはあるけれど、ほとんどの桜はSと見ていたんだと改めて思ってまた涙が込み上げてきた。
背の高いところは、頼んで構図を伝えて撮ってもらったり、
行きたい場所があれば連れて行ってもらい、
春は特にいろんな花を求めて連れて行ってもらった。
春が過ぎても、四季折々の花を求めてドライブして。
自然のある場所、買い物、山、美味しい食べ物、美術館、等々とにかく私がやりたいことを全て叶えてくれるドラえもんだった。
ついつい、話しかけそうになって、再び「もういないんだな」ということを実感した。
プリンセスプリンセス「M」
最近この曲をよく思い出す。
プリプリの「M」
「あなたのいない右側に
少しは慣れたつもりでいたのに
どうしてこんなに涙が出るの
叶わない想いなら
あなたを忘れる勇気だけ
欲しいよ」
歩くときは、いつも私が右側だったからこの歌詞とは逆。
もしくはちょっとだけ後ろにいて見守ってくれていた。
この曲には「こんな日がくると思わなかった」
という歌詞があって。
流行った当時、結構みんなで歌っていたけれど、まさに「こんな日がくると思わなかった」
これは失恋の歌(だと思う)で死に別れではないけれど、
「消せないアドレス」とかひとつひとつ分かりすぎて・・・
未だにiPhoneの電話番号もメールアドレスも消せていない。
消したら本当にいなくなりそうで(もういないのだけれど)嫌なのだ。
奥居香さんもこんな経験をしたんだろうかと思う。
当時の私は全くそんな経験もなく、ひたすら毎日幸せで楽しくて、まさに怖いもの無しだった。
自分が将来こんな別れを経験して辛い思いをすることになるなんて露ほどにも、そして夢にも思っていなかった。
分かっていたら、もっともっといろんなことを大切にしたかった。
本当は幸せなはずなのに幸せと思えない
約10年前。
ひどい生活をしていた。
最低限の掃除・洗濯以外は仕事、仕事、仕事。
ご飯作りなどする気力も体力も残っておらずいつもぐったりしていた。
家に7時間もいなかったと思う。
唯一の救いは、土曜の数時間のお茶のお稽古。
平日は自分の時間がなく、週末はお茶のお稽古の時間以外は体が疲れて何にもできず
マッサージか寝ているか。
疲れすぎて台所に立つこともできなかった。
今思うとひどい生活だった。
仕事は一生懸命やっているつもりだったけれど文字通り自分の暮らしをすり減らしていた。
今はその時に比べたら天国。
残業があってもあの時よりはマシ。
当時は家でご飯を作る気力は1ミリもなかった。
外食代とマッサージにどれだけお金を使っただろう・・・。
だからそれに比べたら今は、
- とりあえず健康(いつも疲れてはいるけれど)
- 仕事もある
- 家族もいる
- 友達もいる
- 普通に好きなことができる暮らしができる
それだけで十分なはずだ。
ただそのベースにあるはずだったSというかけがいのない人が世の中からいなくなったことで、当たり前の幸せを感じられなくなってしまった。
心身のメンテナンスと心のリハビリ