〜 blancのひとりごと

大切な人の死を無理に乗り越えるようともがくのをやめた

 

 

 

 
2018年は、大げさに書くと人生で一番辛い年になってしまった。
 

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師走の銀座四丁目。和光のディスプレイは富士山と鷹と茄子。

 

 

結論は、大切な人の死を無理に乗り越えようともがくことをやめたという話。

 

 

大切な人を失うと、時間が止まる

 

大切な人の突然の訃報から、それまでの自分に戻れていない気がしている。

【焦点】ないものではなく、あるものを見つめる - Pleasant days〜自由に、軽やかに〜

 

【決意】私は今とこれからを今まで通り生きるべきなのだ - Pleasant days〜自由に、軽やかに〜

 

あの日を境に、いろんなことが以前と同じようには楽しめなくなり、平静を装い日常生活をこなしている。

そう「こなす」感じ。

 
誰もに起こりうることだし、特別なことではないと頭では理解していても、心がついていかない。
 
人によって大切な人の死は受け止め方や耐え方が違うと思うのだけれど、
 
  • 時間が解決する
  • 時薬
というのは嘘だ・・・
 
と思った。
 
これから周りの人に同じことがあったら、私は「時間が解決する」は絶対に言わないと思う。
そう思おうと頑張ったけれどそんなことはできず、無理だった。
少なくとも1年という時間軸では困難だった。
 
あれから全く私の時間が進んでいない気がしている。
年末に会った友達にも「時間が進んでいないんだね」と言われたのできっとそうなんだろうと思う。
 

時間とともに、むしろ悲しみが深まっていく

 
当たり前だけれど経験しないと分からない。
 
そして、その出来事が起こる前の自分には良くも悪くも決して戻れない。
 
捉え方を変えると、だから行動が必要なんだ。
 
経験をすることが今までと違う自分を作っていくのだなと思う。
行動が自分を変えていける。
 
「大事な人を失う」という経験で、違う自分が出来上がってしまったのだ。
 
 

今はここに立ち止まってもいい

 

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この本を買ってみたものの、まだすんなり心に入ってこない。
最近も夜になると悲しみが襲ってきて泣いたりしている。
 
仕事は大変だけれど、あってよかったと思うこともある。
忙しいとその時は頭から離れてくれるから。
 
そんな悲しくて辛い時に目に留まった記事がある。
 
「そうなの」と思うことがたくさん書いてあった。
 
例えば、
 
この先、あなたがどれだけ頑張っても昨日までと全く同じ幸せがあなたに手に入ることは二度とありません。頑張った先には幸せが待っているかもしれませんが、それは昨日までの幸せと別の幸せです。
 
とか、「あいつ」という人称に違和感はあるものの、
 

あなたにとって世界が終わった瞬間かもしれませんね。大袈裟ではなく、あいつがいない今日が信じられない。あいつがいない明日が想像できない。

でも、あいつがいなくてもそこで世界が終わるわけではありません。あいつがいなくなった時間で時が止まることはありません。あいつがいなくても、世界は残酷にも通常通り動き続けます。

どうしてなんでしょう?あいつがいないのに。なぜ世界は終わってくれないのでしょう?あいつがいない世界でこれからなにをしろと言うのでしょう?

 

解決されたわけではないけれど、気持ちが分かってもらえた気がした記事だった。

これからの私の幸せに物理的にはもうSはいない。

精神世界は別として物体がある世界にもうSはいない。

 

今の私がどうしたいか

 

気分的には1年くらい家に引きこもり泣き暮らしたい

 

と思ったり、

 

どこか自然が美しいところでぼーっと何にもしたくない

 

と思ったり。

 

たぶん「何にもしたくない」がベースにあるのだと思う。 

過去の記事を見ても「何もしたくない」と書いてあり、やっぱり私の時間はまったく進んでいない。

 

Sがいないから何をしても楽しくない。

 

引きこもりたいと思っても現実には、家に引きこもるわけにはいかない。

正確には、引きこもってもいいかもしれないけれどその選択を私はしていない。

 

今までの私なら「楽しい」と思うはずのことをしている。

今はそれしかできないみたい。

ふとした瞬間に、

「心から楽しいのか」?

と自問自答すると違う気がして何にもできなくなってしまいそうで、自分を問い詰めないようにしている。

 

周りにいる私の大切な人たちと時間を過ごして、

好きなことをする時間を増やして、

 

そうやって自分の心が回復していくのにゆっくり付き合っていきたい。

 

今、辛いことは思い出

 

都内には思い出の場所ばかりで、歩いているだけで泣きそうになる。

たくさんの場所をドライブしたから、テレビでその場所を見ると辛い。

山の番組を見ても涙が出る。離れていても録画して一緒に見ながら話したから。

美術館にも行きたいのに行くと悲しい。 いつも隣にいてくれたから。

お蕎麦や鰻を食べると悲しい。よく食べに行ったから。

湯葉を見ると悲しい。お母様が作ってくれるのを、地元を離れてからは持ってきてくれたから。

夜空を見上げて星や月を見ると悲しい。地元を離れてから、会社からの帰り道で電話をしながら、夜空を見上げて、「今日の月は満月だ」、「上弦の月だね」とか「今日は月が出ていない」とかそんなたわいも無い話をしていたから。

 

・・・・あげるとキリがない。

 

当たり前だけれど生活の一部始終に何らか接点があるから思い出してしまう。

離れていてもそうだったから、一緒に暮らしていた人が居なくなったら、どんなに恐ろしいかと思う。

 

とにかく私の好きなことをいつも一緒にしてくれたから、やることなすことが全て悲しくなってしまう。

 

辛い。悲しい。また会いたい。

そしてそう思うことを何とか否定して頑張ろうとした2018年だった。

 

それだけたくさんの楽しい思い出をくれたSに感謝している。

楽しい思い出しかない。優しくしてもらった記憶しかない。

ひとりでいると永遠に泣き暮らせる気がしてくる。

 

 

私の以前の幸せは跡形もなく消えた

 

なぜ先にいなくなったの?

 

毎日そればかり思うし、後悔がとても多い。

もっと会いたかった。もっと話したかった。もっと一緒にいろんなことをしたかった。

 

だけどまだまだ私の人生は続いている。

そしてまたSのように私の人生だって突然何かあるかもしれない。

 

あの日に私の以前の幸せは跡形もなく消えた。

 

でも、新しい違う形の幸せは、もう自分の手の中にあるはず。

当たり前の日常を過ごせることがそもそも幸せなのだ。

今の私にはなかなかそう思えないけれど、そう自分に言い聞かせている。

 

当たり前に日常を過ごせても辛いのだ。。。

 

でも辛い気持ちを抱えていることと幸せかどうかというのは別のことだと言い聞かせ、

 

大切な人の死を乗り越えなければ、と必死にもがいていたけれど、乗り越えようともがくのをやめることにした。

 

寂しさや悲しみに蓋をして、「明るくしなくては」「楽しまなきゃ」と自分に強制すると、その反動で寂しさや悲しみが大きく感じてしまう。

だから悲しいときにその気持ちに蓋をしないようにしたい。

 

次の命日、またその次の命日、またまたその次の命日と私の心に大きくついた傷が少しずつ癒えて、そのうちかさぶたになってくれたらいいなと思う。

 

今はまだ傷がグシュグシュしていて、ちょっとしたことで血が流れてしまう。

 

昨年の今日はまだSがいたのに。
そう思うと苦しくて苦しくて仕方がない。
多分命日を過ぎれば、去年の今日はもう居なかったんだ・・・と別の悲しみに襲われるだろう。それも今から怖い。
 
そんな自分が嫌だけれど、悲しむ自分を否定しないで許そうと思う。
すぐに消そうと思っても消えないから、付き合っていくしかない。
辛い気持ち、寂しい気持ちを抱えていても、幸せにはなれるはず。
毎日穏やかに楽しく過ごしていきたいと願っている。
 
ということで、連休に引きこもると絶対に暗く、泣き暮らすことになってしまうので旅に出る。
 
毎年2月に北海道に行って、雪と氷の世界を満喫していたけれど、今年は仕事の調整と一周忌の関係で難しい。
ちょうどマイルも貯まったので、明日から北海道に行ってくるつもり。
仕事でお世話になった人達、プライベートでお世話になった人達に会ってくる。
直前に決めたから何にも準備していない。
身軽に行こうと、4泊5日だけれど小さなスーツケースで挑戦してこようと思う。
今回はアウトドアな予定を入れられなかったから、カジュアルな服も靴も諦めた。
 
 
昨年はSのことで流氷を諦めたので来年は(気が早い)行きたいと思っている。

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流氷に乗るのはとっても楽しくて何回でもやってみたいこと。海にぷかぷか浮いて気持ちがいい。
流氷によじ登るのに時間がかかり、真ん中が溶けかかって凹んでいる。
この時は、ガイドさんと友達とでオホーツク海に入って(!)流氷を満喫した。
また絶対に行こうと思っている。
 

 

 

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